ライティングは魂を開く〜オカリナで起こった3つの奇跡より
ライティングは、コミュニケーションです。
書き手の感情と読み手の感情が呼応するとき、
奇跡が起こります。
本当です。
私はオカリナ演奏を通じて3回奇跡を目の当たりにしました。
そしてこの奇跡は、文章術にも当てはまると気づきました。
オカリナで起こった奇跡
オカリナを吹くと、ときどき奇跡が起こります。
吹いている私自身が、びっくりします。
(そもそも、そんなこと起こそうと思って吹いているわけではないので。)
オカリナは「魔法の笛」?
いえいえ、おそらく、オカリナの音色が、
その人の中にある何かを引き出してくれるのではないかと
わたしは思っています。
そんな中で、特にはっきり奇跡が起こった
3つのエピソードをお話しします。
全身麻痺で動かない母の手が動く
私の母は、元気な時はとても歌が好きで
特に演歌が大好きでした。
市町村ののど自慢大会にも出たことがあります。
そんな母が認知症になり、いろいろなことを忘れ、
数年前に倒れて命を取り留めてからは、
母はもう、話すことも、体を動かすこともできなくなりました。
私は
老人ホームで暮らす母に面会に行っては、
母が好きだった曲をオカリナで吹いていたのですが、
ある日
老人ホームの母を訪れて
枕もとでオカリナを吹いた時のことです。
母の大好きな「細川たかし」をオカリナでそっと吹きました。
「細川たかし」の「北酒場」を吹き終わって、
「おかあちゃん、どうや?」と尋ねると、
母は握った手を少し握り返してくれました。
母は老人ホームに入って以来、
全身を動かすことができなくなり、
生活のすべてが全介助です。
もう認知症も相当進んでおり、
言葉をしゃべることも
目を開けることもできなくなりました。
食事も自分の口から食べられず
「胃ろう」と言って、胃に直接チューブを入れて
そこから流動の栄養を入れています。
そんな母が
オカリナで吹く「細川たかし」を聴いて
少し目を開けようとしたかの動きがあり
私が握る手をわずかに握り返してくれました。
うれしかった。
おそらく、このわずかな動きは
母にとってものすごい動きなんでしょう。
母はただ寝ているだけの人ではない。
たとえ言葉で返事をできなくても
私は、面会に行ったら、話しかけ、いろんな話をし、
オカリナを今も吹いています。
次の瞬間忘れていても、
いま確かに聞いてくれているということが
私にはわかるから
いつも初めて訪問した気持ちでオカリナを吹き続けています。
「帰りたい」と泣いていた人が落ち着く
もう1件は、同じ老人ホームの廊下での出来事です。
そのホームは母のほかにも、
とても重度の認知症の方が入所しているのですが
おひとりの方が「帰りたい」とパニックを起こして座り込んでいました。
夕方4時ごろでしょうか。
だいたい、デイサービスに来ている人がおうちに帰る時間で
送迎バスが出発するころの時間です。
おそらくその方にとっても
デイサービスでおうちから通っていたころの記憶が混乱して
「帰りたい」とおっしゃっていたのかもしれません。
職員の方とのやり取りを横で聞いていますと、
その方の、これまで住んでいたおうちももうなくなっており、
このホーム以外は過ごす場所がありません。
それでも、ないはずの家に「帰る」と言っておられるのです。
おそらく、その方にとってはその家が現在形で存在するのでしょう。
職員さんたちが、対応に困っていました。
みんなが何を言っても、なぐさめてあげても通じません。
それで、私はポケットからオカリナを出して、「春の小川」を
その方へのプレゼントに吹いてみました。
そうしたら、
「うれしうなった」と、落ち着かれ
先ほどのパニックが嘘のようににこやかになられました。
まさに、オカリナの奇跡だなと思いました。
オカリナの音色に何かがあったのでしょうか…
43番まで歌った鉄道唱歌
私が老人ホームでケアワーカーをしていた時のことです。
私は、よく、
介護業務の合間に、
利用者の皆さんが座ったり
くつろいだりされているテーブルに一緒に座って、
歌を歌ったりオカリナを吹いたりしていたのですが、
ある日
ひょんなことから、鉄道唱歌を吹きました。
「汽笛一声新橋を ただいま汽車が走ります・・・・」
そうしたら、
ある利用者さん(その方は重度の認知症の方でした)が
新橋じゃなくて
山陰線の福知山から出発する歌を歌い始めたのです。
そして2人、3人がこの方に合わせて同じように歌い始めました。
「汽笛一声福知山 ただいま汽車が走ります・・・・」
そして
福知山始発で、次々と駅名が出てきて
夜久野、鳥取、米子、出雲まで
そして出雲大社詣でをして
そして汽車はさらに出雲を超えて長門、萩、
萩で吉田松陰先生のお参りをして
下関まで、
巌流島で宮本武蔵と佐々木小次郎の名勝負を偲ぶ
あとで数を数えると
なんと、各駅停車で43駅を、正確に歌い続けたのです。
もちろん私も43番まで吹きました。
駅名だけでなく、
このように、ご当地のエピソード、史話などが
ユーモアたっぷりに出てきて
各駅停車で私の知らない駅も何駅も出てきました。
「鉄道唱歌 福知山始発山陰線ローカル版」です。
この素晴らしい歌を歌っておられたのは
日ごろはあまりお話されないか
お話がちぐはぐな、認知症の方々です。
しかも歌詞カードなしです。
後日、
歌詞を記録したいと思い
「教えてくれませんか?」と頼みに行ったときは
「そんなん、歌うたかいな?」
歌ったこと自体を忘れておられました。
しかし、あの時、確かに43番までの
山陰線版鉄道唱歌が歌われたのです。
吹く人と聴く人の気持ちが調和するとき
ただ、これらの不思議なことは
オカリナの音色のことだけではないと思います。
その方の記憶(「春の小川」など)
言葉では言えない、その方のセンスやニュアンス
吹いた時の、吹き手の雰囲気
それを聞いていた周りの人の雰囲気
その他いろいろなことが総合して
不思議なことが起こったのだろうと思います。
一方的に吹くだけでは、
そう言う良い効果は見られないだろうと思います。
うるさがられるかもしれません。
しかし、
聞く人の「みみをかたむける」気持ちをみて、
吹く人が「かたりかける」こころで吹いたら、
奇跡が起こるかもしれないと気づかせてもらえました。
その人の「内なる」なにかが、活性化されたというか
生き生きとした瞬間だったのだろうな。
オカリナの音はほっこりして、いい加減な音色なので
聴いている人がリラックスして心の中で一緒に歌ったり、
あるいは声に出して一緒に歌ったりできるから、
その席に一緒にいる人の中の何かを
表に出すことができたのではないかと思うのです。
ライティングにも通じるオカリナの奇跡の意味
これらの奇跡の意味をライティングの学びに落とし込むと、
こういう事が言えると思うんです。
一つは
書き手と読み手の感情が通じ合ったときに、相互作用が起こること、
もう一つは
ぎこちなくても、うまく書けなくてもいい、かえってそのほうが通じ合う
ということです。
書き手と読み手の感情が通じ合ったときに、相互作用が起こる
オカリナ演奏では、ただ単に上手に素晴らしい演奏をしたとしても
こうした奇跡は起こらなかったと思います。
相手と寄り添って吹く、そして一緒に時間を過ごす。
そのとき、
聞き手も、ただ聴くだけではなく、
一緒に心で歌う、声で歌うということが起こっていました。
文章もコミュニケーションです。
書き手のあなたがいれば、それを読む人がいます。
読み手の気持ちを考え
寄り添うように書いたときに、
「この文章から、感じた。気づいた。」と
心と心の響きあいが起のです。
上手でない、ぎこちない文章が、かえって通じ合う
また、私は決して上手に吹いたわけではありません。
ピッチはバラバラ、指は間違う、それでも、
それでもホッコリ楽しめる。
そもそもオカリナというのは、
オーケストラで使う正確な楽器とちがい、
出来上がる楽器一つ一つに癖があり、
どんなに調律しても
「いい加減な音」の感じは取り除けないのですが、
かえって
とてもいい加減で、ほっこりする音であるから
心にスッと入りやすいのだと思います。
文章でも同じ。
もちろん、校閲に校閲を重ねられた、出版物からも何かを感じますが、
たとえぎこちない文章でも、
そこからもっと、生き生きとしたものを感じることが多々あります。
うまい文章、完璧な文章でなくても、
下手でも不器用でもいいから、書く。
心を込めて、
感情を込めて書く。
かえって、不器用な文章のほうがスッと親しみやすいこともあるから
心配せずに書いていこう。
そう気づきました。
そしてこうしたことの根底にある大きな気づきもありました。
それは
相手の人の中にある力を信じるということです。
ライティングでは、
伝えよう伝えようと躍起になるよりも、
読み手の中にある力を信じて書くということです。
私たちの中にある信じる力
社会福祉に携わっているとよく感じるのですが、
その人自身の中にある 自分でも気づかない力が出た時に
周囲が「奇跡」と感じる出来事が起こるのではないだろうかと
思うことが多いのです。
私も含めて、福祉や医療に携わっている人は
それをサポートしているのではないかと感じます。
あくまでもその人が主人公の
その人の場で
その人自身が
自分の気持ちで何かを感じ、
何かをすることを
寄り添いながら支える。
気長に待って、
待って、
その人に負担にならないように、それとなく支える。
そんな中でその人が、本来の力を出せるときがある。
それを小さなことでも見つけ、
「できましたね」
「よかったね」と
一緒になって喜ぶ
これが
今日でも体験する「奇跡」の姿じゃないのかなと思うんです。
その人には
本来の素晴らしい姿があります。
その本当の素晴らしい姿があることを信じ続け
その姿を大切にしていきたいと思います。
オカリナ演奏でも、
文章のライティングでも、
聴く人、読む人の力を信じて
寄り添うように吹き、寄り添うように書いていけたらいいなと
そう思います。
この記事のまとめ
文章を書き、それを公表するというのはコミュニケーションです。
書き手の気持ちと
読み手の気持ちの交流です。
オカリナ演奏でも、
吹き手と、聞き手の気持ちが交流したとき、
奇跡が起こりました。
それは
ただ演奏がうまいとか素晴らしいという事ではなく、
その場の人に寄り添い、一緒に時間を過ごすように吹くことで
気持ちが伝わりあいました。
また、
オカリナというのは、とてもいい加減な、「素人っぽい」音の楽器ですが
こういう、いい加減な音でかえって場が和み、ほっこりします。
こうしたことから学んだことは
こういう気付きがありました。
こうした気づきの感謝を込めて、
ゴスペル「主が手を取って起こせば」という聖歌を吹きました。
板東正裕さんの作品「颯オカリナ ソプラノF」で吹きました。
ゴスペル「主が手を取って起こせば」