不動心の真実とは〜間違いだらけのマインド論を斬る!
よく、マインド論の本で
「不動心をもって、貫き通せ」と書かれていますが、
しんどいと感じませんか?
実は私は、オカリナだけじゃなく
剣術と合気道の修業を38年続けていますが、
真の不動心は「動いてもいいと思えることだ」と悟りました。
え?それって、どういう事?
不動で頑張るのが本当に不動心か?
ある、マインド論の本に
「不動心を持って、不退転の決意を貫くこと」
という文句を見ました。
いいことが描かれているなあ・・・
不動心とは?
不動の心、つまり、動かない心ですね。
動かないとはどういうことか
頑として動かない心
「やるぞ! と思ったら、雨嵐の中でも絶対に貫く、鉄壁の心」をもって
継続的に実践してこそ、真に道は開けるんだ!!!
そう、ビジネス書に書いてありました。
「ほう、素晴らしいね」
私は他人事のように感じます。
武道修行38年の私がそんなことを言うのは意外と思われますが、
人はそんなに立派な、動かない力を持っていません。
もちろん私も、そんなに素晴らしい不動心なんか持っていないから・・・
こころの正体
「こころ」とはなぜ「こころ」と言うのでしょう?
それは ころころ動くからです。
「ころころりんのこーろころっ」ていうから「こころ」。
こころの正体は
状況によって絶えず動く、思考や感情の様相、波動、局面と言ったものです。
青くもなれば赤くもなる。
だから、心は面白い。
こころは常にころころ動きます。
なぜなら、私たちは、肉体を持っており、感情と言うものを持っているからです。
しかしそれは、人間である私たちに与えられた素晴らしいことだと思います。
心が動くから、芸術が発展してきたのですから。
心が動いても憂うるな
だから、心が少々動いたからと言って、とやかく思わないことです。
それはそれでいいのです。
腹が減った時やしんどい時、体調が悪い時、心の調子が悪い時などもあるでしょう。
そんな時にめげている私たちも真実の私たちであります。
めげていてもいいのです。それでも不動心は保たれています。
やろうと思ったことを、まだやっていなくてもいいのです。
それでも不動心は保たれています。
では
不動心の不動の部分とはどんなものなのか
それは、人それぞれと思いますが、
自分がこれまで生きてきた中で根本的であり続けてきた部分、
自分の存在の根本的な部分
自分が今ここにいること、それ自体ではないでしょうか。
そのことをOKと思っていることです。
その根本的なことをしっかり持ってさえいれば、
どんな状況でも自分をOKと思える。
今日できなくても、大切だと思うことを細く長く続けられる。
時代や情勢が目まぐるしく変わろうとも
それに振り回されることなく、柔軟に自分らしく、オンリーワンでいられる
そういうものではないかと思うのです。
たとえ猛スピードで動いていても
先日、ビデオで航空自衛隊ブルーインパルスの展示飛行を見て感動しました。
特に、編隊飛行のデルタ陣形はすごかったですね。
隊長機が自由自在に動く中で、あとの5機は正三角形の相対位置を崩すことなく
見事に編隊飛行を保っていましたね。
あれを見て、不動心ってなんとなくこう言うことじゃないかなと感じました。
あれは
動いていないのではなく
動いているんです。
しかもものすごいスピードで動いているんです。
ただ動いているだけではなくて
コースが目まぐるしく変わり、またたく星屑のように動いているんです。
では動いていないのは何かと言うと、
基準機(隊長機)との位置関係です。
基準速力にシンクロさせた修正速力と
基準機からの相対方位を
たえずチェックしながら
絶え間なく動く基準機から一時も目を離すことなく
即座に柔軟に頻繁に、自らの針路・速力を修正しているのです。
その結果、
それはそれは形の美しいデルタ編隊が
どんな進路速力になっても保たれているのです。
ああ、ブルーインパルス!
熱く燃えたぜ!
よく考えてみると
「動かざる大地」すら
ものすごいスピードで動いているのですね
なぜなら地球自体が凄い速力で回転しながら太陽の周りを回り、
太陽も銀河系の中で回っているんです。
動かないのは、位置関係と運動の秩序だけです。
ああ、地球人よ!
燃えたぜ!
俺も幼いころUFOを見たぜ!(なんも関係ないやん!?)
要は自分の中に「ブルーインパルスの隊長機」をしっかり持って
「隊長機」との位置関係を、ぶれずにしっかり保っておくこと。
そうすれば、時代はコロナウイルスや新しい生活様式などと言って目まぐるしく変わっていっても、
それに柔軟に対応しながら、
振り回されることのない方向性を保てるのではないでしょうか。
逆境になったら、歯を食いしばって頑張る
それで頑張りの成果がなかったら嘆く、
出来事が変わるたびに右往左往する、
いくら続けてもどうせダメなんだと思って投げだす、
一方でいいことがあったら喜び、自慢する、
順境になったら、辛かったことも忘れてウキウキする、
成功していない人を見下したり同情する・・・
それでは「不動心」ではなく
「浮動心」です。
本当の不動心とは
逆境であっても、順境であっても、
そんな状況に左右されることなく、
淡々と自分の中にあるものではないでしょうか
それは
動かない大木や、鉄の城のような不動心ではなく
柳のような、雑草のような、踏まれたらしんなりペチャンコになって、それでも生き続けているような
柔らかく、ふわふわ動きやすい不動心でしょう。
賢者パウロの書いた手紙の真実
パウロと言う人は
テサロニケの人々への手紙の中で
「いつも喜んでいなさい」と説きました。
この「いつも喜んでいなさい」という手紙は
ローマにとらえられて
死刑囚監房で処刑を待ちながら書いたと言われています。
パウロの言う「喜び」とは
「ラッキー」とか「ハッピー」とか言って飛びあがるようなものではなく
どんな時も自分の中に淡々とあり
薄められることもなく絶えずあり続けるたぐいのもので、
明日処刑されるような身上であってもあり続けるし、
幸せな日常の中でもあり続けるものだと
私はパウロの手紙を読んで感じ取りました。
その「喜び」こそ、
自分が今自分としていることの喜びこそ、
「不動の心」ではないかと思います。
動けない心ではなく、自由に動ける心を目指せ
長々と思いつくままに書いてしまいましたが
要は
毎日の暮らしの中で
何かを実践しなければならないのならば、
それを実践できていない自分を責めたりすることもなく、
どんな状況においても柔軟に、
嵐の中で踏ん張る大木のようにいるのではなく、
嵐に萎えるしなやかな雑草のように、自分は自分のままでいましょう。
本当の意味での「不動心」はそこにあるのではないでしょうか。
「不動心」
それは
「動けない心」(頑固な心、がんじがらめになった心)
ではなく
「自分の意思で自由に動ける心」
でしょう。
そんな不動心を目指して、日々精進してまいりましょう。