終戦記念日の黙祷に思う〜ルワンダ虐殺を生き延びた女性によせて
コロナウイルスの本当の恐ろしさは、人の心を恐怖で支配すること。
支配された群衆は想像もつかない惨事を起こす。
ルワンダの経験から学びます。
ここに、あの惨事を生き延びた一人の女性の著書にめぐり遭いました。
ルワンダの惨劇を生き抜いた若い女性イマーキュレー
その本は
「ゆるしへの道」という本で
ルワンダの悲惨なホロコーストを生き延びた、若い女性
イマキュレー・イリバギザ(Immaculee Ilibagiza)さんが執筆された本です。
読み終えて、
まるで心に矢が突き抜けた思いでした。
(画像引用:Amazon https://www.amazon.co.jp/
本の表紙の方が、著者のイマキュレーさんです。 )
と同時に、イマキュレーさんには及ばないが、
私は、人が到底経験しない、いろんな出来事を通過してきたのに、
いまだに気づいていなかった、物凄いことに気づかされ、
自分が変わる思いがしました。
ご参考のため、Amazonの購入リンクを載せておきます。
ルワンダ紛争を生き延びて
1994年に始まった、アフリカのルワンダという国での大量虐殺。
この中でイマキュレーさんが語っておられる内容は
目を覆いたくなるほどのむごいものでした。
(写真はルワンダで虐殺が行われた直後の光景。
この時、いのちを失わなくても、手足が切断されたり、重症のPTSDを発症したり、いろいろな障害に今も苦しんでいる人々が多い。)
(画像引用: 「HKennedyの見た世界」
http://hkennedy.hatenablog.com/entry/2016/03/08/065936 )
しかし、
その中でも、イマキュレーさんが気づかれたこと。
その言葉に私は、自分の生き方を本気で変えるほどの
大きな光を受けました。
恐怖と不安に震えながら
イマキュレーさんは、虐殺の恐怖に震えながら
何日間も狭い場所に隠れて生き延びました。
お母さんや兄弟、幼馴染の友達、多くの大切な人が、残虐な方法で殺戮されました。
そしてルワンダに平和が戻った後も苦しいPTSDにさいなまれ、
深い心の傷を受けました。
この本の中で語られる情景は
ここには書きませんが、
もう、想像を絶する状態です。
(殺戮は、軍隊の砲弾やミサイルではなく、
普通の人が、農作業や畜産に使っていた山刀や鉈といったもので、
ついこの前までは普通の人たちが、残酷な方法で殺戮を行いました。)
(写真提供:PIXABAY https://pixabay.com/ja/
なお、写真はルワンダとは関係ありません。山刀のイメージを伝えるために掲載しました)
最も熾烈な苦しみは ゆるせない苦しみ
そんなイマキュレーさんが、著書の中で、こう書かれています。
「最大の奇跡は、神の本質に気づかされたこと、そして筆舌に尽くしがたい残虐な行為に及んだ人々をゆるす力を、神を通して得たことです。
(中略)
周りの人々を皆殺しにしていく殺人者たちをゆるせるようになることを願って、「主の祈り」を何百回も唱えました。でも、うまくいきませんでした。「私たちも人をゆるします」の個所にくるたびに、口が渇きました。これらの言葉を真に受け入れられず、唱えられませんでした。ゆるせない苦しみは、家族から離れている心痛より大きく、また身を潜めていることによる身体的苦痛より堪えがたいものでした。」
(引用:イマキュレー・イリバギザ著、原田洋子訳『ゆるしへの道 ルワンダ虐殺から射してくる ひとすじの光』女子パウロ会、2013年5月、28頁〜29頁)
このように語られるイマキュレーさん、
きっと「天にまします」の祈りの後半、
「私たちが人にゆるすように、私たちの罪をおゆるしください」
のフレーズに来た時には
体中が震え、時にはPTSDの症状で
ものすごく苦しい発作にさえ見舞われたのだと
私は想像します。
PTSDでのフラッシュバックの物凄い苦しみは
私も経験していてよくわかるんです。
あの想像を絶する虐待と虐殺の被害を受けたイマキュレーさんにとって、
イエスが教える「ゆるし」って何?
「愛」って何?
と何度も問いかけられたと思います。
人はすべて ゆるしに値すると気づいた日
そしてイマキュレーさんは、この激しい問いの中で苦しみ、苦しみぬいて、
こう語られました。
(引用:イマキュレー・イリバギザ著、原田洋子訳『ゆるしへの道 ルワンダ虐殺から射してくる ひとすじの光』女子パウロ会、2013年5月、29頁)
被害者も、加害者も、神のゆるしの恵みに値すること。
このことを、涙に潤む目の向こうに
ほんとうに
真っ赤に泣きはらしてただれた目の向こうに
こうイマキュレーさんは感じられたのです。
刑務所の加害者と面会して
ルワンダの紛争が収まり、時がたって、破壊された街も少しずつ復興し
虐殺に参加した人々が刑務所で服役していました。
そんなある日
イマキュレーさんは、
お母さんと幼馴染を惨殺した加害者である、フェリシアンという男性に
刑務所まで面会に行きます。
そのときの心境をについて、イマキュレーさんはこう語られます。
「故郷の近くの刑務所まで、フェリシアンに会いに行きました。母とダマシーンに大鉈を振り下ろした男です。
殺人者となった多くの人がそうだったように、フェリシアンの魂も混乱していました。彼の心から闇が取り去られると、後に残ったのは後悔と罪の意識だけでした。」
(引用:イマキュレー・イリバギザ著、原田洋子訳『ゆるしへの道 ルワンダ虐殺から射してくる ひとすじの光』女子パウロ会、2013年5月、32頁。引用者注:「ダマシーン」は著者イリバギザさんの幼馴染)
虐殺に参加していたころは、
自分が何をしているのかさえも気づかなかったのが
ふと我に返ったときに、
自分がやってしまったこと、
その取り返しのつかないことに、
きっとフェリシアンはこころが焼けただれるように苦しみ
自分を責め、
自分を赦すことができなかったことと思います。
イマキュレーさんは、フェリシアンと短い会話を交わしました。
会話の内容は、この本には書かれていません。
きっと、表現できないんだと思いますが
イマキュレーさんは言葉では表せない感情がこみ上げたことだろうと思います。
先日投稿した、渡辺和子先生のお話で、
和子先生が、お父さんのお墓の前で、
2.26事件の加害者の将校と出会った時も
言い表せない感情が込みあがってくるのを必死でこらえたといわれています。
イマキュレーさんはこう語っています。
(引用:イマキュレー・イリバギザ著、原田洋子訳『ゆるしへの道 ルワンダ虐殺から射してくる ひとすじの光』女子パウロ会、2013年5月、33頁。 )
ここで
大きな気づきが語られているのですが、
被害者も、
そして加害者も、
同時に、神の力を必要としているということです。
私はハッとしました。
気づくこと、
進歩すること、
今より一歩前に進むこと、
それは、被害者、加害者両方にある大きな課題であるということ。
過去の傷にさいなまれていても、人は前に進めること。
ゆるしとは、人智を超えている
人は人を赦せるか
人は、人を、赦すことができるのか?
大きな疑問です。
大きな挑戦です。
人生の、一生かけての、大きすぎる挑戦です。
傷を受けた側の
人をゆるすことのできない熾烈な苦しみ、
そして、もしこれを乗り越えて、頭では相手をゆるせても、
受けた傷の痛みがPTSDになって続いていく苦しみ、
そして
傷つけた側も、
ゆるされない苦しみ、
そして、たとえ法的償いや刑期を終え相手にゆるされようとも、
自分が自分をゆるせない苦しみ、
こうした想像を絶する苦しみに向き合って行かなければならない。
これに対して安易な言葉や議論では、
到底すませることはできません。
この記事で、気持ちよく結論がまとめられることは絶対にないでしょう。
わからなくても、希望を失ってはならない
戦争にせよ、事件にせよ、いや
日常でも誰かが誰かを傷つけ
誰かによって傷つけられることは、多くありすぎます。
悲しいですが、多くありすぎます。
紛争や事件だけではなく、
いじめ、虐待、ハラスメント、DVなどによる苦しみは、
とても表現できるものではありません。
いじめのトラウマを持つ当事者でもあり、
ソーシャルワーカーとして相談援助をする立場として活動している私にとっても、
それは見ていられないほどつらいです。
しかし、
この想像を絶する苦しみも
必ず癒されて行かなければならない、
その希望を私たちは捨ててはならないと思うのです。
どのようにして癒されていくのか、
どんなプロセスで癒されていくのかはわからなくても、
その希望を失ってはならないと思うのです。
イリバギザさんのこの本を読んで、
ゆるしとは、人の知恵を超えているのではないかと感じます。
自分のいのちは自分だけのものじゃない
答えはいまだに見つかりませんが
傷つけられた側も、傷つけた側も、
人智では知れなくても、
癒されていかなければなりません。
イリバギザさんの言われるとおりだと思います。
自分のいのちは、自分のもののように見えますが、
自分だけのものじゃない。
同時に
私を傷つけた人、
敵意を抱く人のいのちも
その人のもののように見えますが、
その人だけのものじゃない。
そう思うのです。
軍事力から脱皮した本当の平和とは
世界から核兵器がすべてなくなっても平和は実現しないか
今日は終戦記念日。
平和について考える日と思います。
私は、かつて国際政治学者として学問の世界におり、
国際政治外交史や安全保障論など様々な複雑な議論をしてきましたが、
「平和」は、政治外交関係や、軍事バランスだけで実現するものではない。
こんな簡単なことを、
福祉の道に進むまで気づくことができなかったのは
いくら学問をして知識が豊富でも、愚かだったと思います。
やっと気づきました。
世界から核兵器がなくなっても
鉄砲や刀などさえなくなっても
何かの形で傷つけあいは起こり
平和は達成されないでしょう。
ルワンダ虐殺。
これは、ミサイルや爆弾で国の軍隊により行われたのではない。
普通の人々が
普通に持っている、くらしに使う斧や鉈で行った。
これは、日常の私たちも厳しく心に記憶しなければならない。
たとえ兵器が全廃しても、
むごたらしい出来事は起こりうる。
人間は
もっと根本的な部分が進化しなければ、
何千年先も真の平和にたどり着けないと思います。
私は、それをしっかり認識しなければならないと思います。
平和の課題、それはこころの挑戦だ
平和への道は
こころの戦いだと思います。
思いも、言葉も、行いも、
私たちはゆるし、癒し、癒され、和解できなければならない。
これは
私たち一人一人の心の葛藤であり、
こころの熾烈な成長プロセスだと思います。
しかし、
このプロセスがいかに熾烈であっても
私たちは
真の平和に気づくときを、あきらめてはならない。
あきらめないから、
私たちはそれぞれ
音楽を奏で、絵画を描き、
書を書き、国際政治の場でも議論し、
学会で論文を発表し、文学や映画作品を作り
ブログやSNSで情報発信し、
あるいはオリンピックなどでスポーツの交流をし、
貿易や交易をし、
あらゆる分野からいろいろな切り口で
アプローチしていくんだ。
世代を超えても。
そう強く思うのです。
記事の終わりに
この記事のまとめを書こうと思いましたが、
結論に至っていません。
というか結論付けることができないほど大きな課題です。
「一番言いたいことは何ですか?」と聞かれると、
「わからなくても、希望を失ってはならない。
必ず、わかる時が来る」
こういいたいのです。
まとめに代えて、私が即興で作曲して吹いたオカリナ演奏をお届けします。
この演奏は
コロナウイルスにより亡くなられた方々の鎮魂を祈り
古代笛とオカリナ、そしてアルメニアの民族楽器ドゥドゥックで 創作演奏したものです。
いま、
コロナウイルスの世界的なパンデミックに襲われていますが
この状況だからこそ、
心の真の平安に気づくことが私たちに求められているんじゃないかと思います。
京都の北の海岸に立って、
コロナウイルスで亡くなられた方々を思うと 涙が止まらなくなり、
創作演奏しました。
この先が分からなくても、
まだ何にも気づくことすらできなくても
希望は失いたくない。
そんな気持ちを演奏に込めました。
演奏はこちら
Ocarina prayer for World Healing~オカリナで祈る世界の癒し「古代笛とオカリナによるレクイエム」〜?????? ??? ??~在陶笛里祈祷的世界医治
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心の傷を受け奈川も、平和を訴え、教え続けられた
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