成功法則の間違いに気づいた日〜人生180度転換の大ショック
私はこれまで、
何かをするならナンバーワンを目指して頑張ってきました。
そしてそれがかなわないときは、
「頑張れ、諦めるな」と自分を励まし続けて来ました。
でもしんどかった。
ある日この考え方を超越する出来事が起こりました。
それは
今日まで生きていてよかった
私は自分で動けない体になってしまった。
情けないと思った。
生きていたくないと思った事が何度もある。
でも
生きていてよかった。
こんな年まで生きていて、本当に良かった。
だって、あなたに会えたんだもの。
明日も私はそう思うよ。
明後日もそう思うよ。
だってあなたに会えたんだもの。
今日まで生きてきてよかったねって
私は言い続けるよ。
人間にできる素晴らしい事はなんだと思う?
それは感謝することだよ。
ほんの少しの事を見つけては いっぱい感謝する。
そんな楽しい事が
人間にはできるんだよ。
これこそ、人間に生まれてきた楽しみだよ。
私にはその楽しみがあるから、
いっぱい楽しもうと思うんだよ。
オカリナお茶べり会で
言葉の宝物
最初に書いたこの言葉は、
私がいつもボランティアでオカリナ演奏に行っている老人ホームで
ある入居者の方から頂いた言葉です。
今でも紙に書いて
言葉の宝物にしています。
その方は、いつもホームの窓の外に見えるお地蔵さんに
朝夕欠かさず合掌しておられました。
「なにかができるわけじゃないけどね、
お世話受けるだけになってしまったけどね、
こうやって、いま居るんや。
ありがたいと思うて
手を合わせられるんや。
このことに
本当にありがとうって思えるまで
何十年も
何十年も
かかったわ。」
涙を拭いて
「オカリナお茶ベリ会」というのは
演奏会じゃなくて、
お茶を飲みながらテーブルを囲んで、世間話なんかしながら
オカリナ聞いたり、歌いたい人は歌ったりする、
ざっくばらんな集まりです。
「コンサート」というようなものでもありません。
といっても
集まりたくない人は集まらなくていいし、
「これから始めます」なんて言わないし、
自然に、お茶を飲みながら始まります。
私はよくこんな形で
老人ホームにオカリナを持って訪問するのですが、
ある日のことです。
みんなが楽しく手拍子をしてくれる中で、
一人のご婦人は
下を向いてさみしそうにされていました。
「どうされましたか」と聞くと
「どうせ
こんなとこに入ったから
うちなんか
世間の何の役にも立たないから・・・
迷惑かけるばっかりだから・・・」
こう言って涙を流されました。
「どうしてそう思われるのですか」
さらにこう聞くと、
「怒られるばっかり。
侮られるばっかり。」
と。
この施設に入って、
このご婦人はどれだけつらい気持ちで悲しみ続けられたのでしょうか。
ごはんも自分で食べられないから、介護を受ける。
自分で食べられたらどれほどおいしいのかと思うのに。
おトイレも自分でできないから、介護を受ける。
恥ずかしいのに、介護を受ける。
今までできていたことが
何もかもできなくなって・・・
私も涙が流れました。
「でもね、
一緒にオカリナ聴いてくれたら
私もうれしいですよ。」
この一言に、ご婦人は
オカリナの音に手拍子を下さり、
歌詞カードもないのにみごとに唱歌を歌ってくださりました。
リビングルームは
このご婦人の歌に先導されて
大合唱です。
オカリナ会が終わってご婦人に
「良かったですね」
というと、
ご婦人は笑顔で、
「よかった。
わたしは
ここにいても、
こうして
いるんやな。
いるんやな。」
とおっしゃってました。
何となく
ニュアンスが伝わってくる言葉ですが、
この言葉の意味について、
帰ってからじっくり考えてみました。
教え込まれた成功法則は間違っていた
私は、これまで、誰かに追いつき、追い越し、トップを取れと教え込まれ
自分でもそう信じてきました。
成功法則の本や、自己啓発の本にはこんな事が書かれていました。
「トップを取れたときにゲットする栄光、喜び、これを
ありありとイメージしなさい。
イメージしたらそれが実現するまで、頑張りなさい」
一時期は
地位も収入も高くなって
ベンツかクラウンに乗っている自分をイメージしました。
でも
今乗ってる車は、イメージしたクラウンやベンツじゃなくって
ダイハツのタントです。
でも、
この個性的で可愛い軽自動車が、私は大好きです。
ベンツよりも大好きです。
「成功のイメージ」
これ、
何か違ってるんじゃないか・・・・
そう思い始めた頃に頂いた言葉が
人生をひっくり返す気付き
そう、オカリナお茶べり会で出会ったご婦人の言葉
「ここにいても、
いるんやな。
いるんやな。」
この言葉「いる」ことって
どんな意味があるんだろうか・・・
帰ってから深く考えました。
そうしたら、ハッとしたことがありました。
この気付きは、私のこれまでの人生観、
考え方をまっさかさまにひっくり返すくらいの
大事件と言っても過言ではありません。
誰かに必要とされることが「いる」ことの意味だろうか?
これまでの私は、
いろんな場の中で、「いる」ことの意味を
「誰かに必要とされること」
と思っていなかったか?
今までの自分のパラダイムが
果たして正しかったのか?
根本的に考え直しました。
学生のころは
勉強する理由は、
役に立つ大人になりたいからと思っていなかったか?
社会に出たら「必要とされる」から
会社などで働いて行くんだ、
家族を支えたり、世話をしたりするんだ、
と思っていなかったか?
これまで
そう思い込んできたのではなかったか?
こう自分で自問してみました。
それで
もういちど
自分に問いかけてみました。
「なぜ生きる?」
私をだれか必要としているから?
「なぜ仕事をする?」
私の働きが必要とされているから?
でも
それが本当でしょうか?
もう一度考えてみました。
そうしたら
わたしは
何にもわかっていなかったことに気づかされたのです。
競争と比較の文化で育ってきた考え方の癖
もし
「あなたはどうしてここにいますか?」
「あなたは何を目標に生きていますか?」
「あなたは何のために毎日働いて生きているんですか?」
こう突然聞かれると
どう言う答えを、とっさに言えるでしょうか?
「家族を守るため」
「人の役に立つため」
「社会に、価値を届けるため」
「世のため人のため」
私ならこう言ってしまうかもしれません。
「他にありませんか?」
こう聴かれても
「うーん・・・・」
と考えて、答えが出てこないと思います。
なぜこんなことになるのでしょうか?
私が生まれたころは、ベビーブームでした。
そのころは、経済は急速なテンポで成長していて、
外国に追いつけ追い越せの勢いでした。
そのころ
私を囲む大人の多くは
競争に勝つことばかりを考えている人が多かったような気がします。
学校でも家庭でも
「どうせするならトップを取れ」と言われ
「人よりも優れていること」が求められていて
優れていたら
「よかったね」とほめられて
優れていなかったら
「がんばれ」と励まされる日々だったと思います。
「昨日までは、明日のための学びと思え。
明日は今日よりも進歩して
ライバルを一人でも追い抜かせ。」
まるで、呪文をインプットされるように毎日毎日、
こう叱咤激励されていたから、
「誰かに一日でも早く勝つ」ことが
潜在意識まで染み付いていたんですね。
もちろん
学校でも点数順位を発表されて、比べられていたし、
模擬テストを受けるたびに
「偏差値」という数字を見せられて
「頑張れ、頑張れ」と言われていました。
このことは
実はものすごい弊害が自分のなかに起こっていたんです。
そのことに、
今の今まで気が付かなかった。
気づかぬ毒。
まさに気づかぬ毒だったのです。
それは、
失敗者・敗北者の思考パターン
困ったことに
まわりの大人に比べられるだけではなくて
自分自身が
自分を比べたり品定めしていたことに気づかされます。
私自身が、自分を誰かと比べ、
誰かより勝っていたら自分が必要とされていると喜び、
誰かより劣っていたら、
自分は必要とされていないと落ち込むか、
必要とされる自分になるように頑張るか、
そう言う思考パターンになっていたんですよ。
そしてそのパターンで
「誰かに負けない」という行動を
無意識のうちに取って来たことが多かったんですね。
実は、この「勝利の思考パターン」は
裏を返すと、
「敗北の思考パターン」なんですよ。
誰かに負けたらどうなるか・・・・
「今度は勝とう」と思えたらいいのですが
「次も負けるかもしれない」と思ったら、次も負けます。
次の次も負けます。
「勝ち組」があれば、
必ず
「負け組」が存在します。
勝ちパターンのころはトントン拍子で
「よし、次は、少し先を行くアイツに追いつき追い越すぞ」
とがんばれるんですが、
いつか
誰かに必要とされていないと感じたら
(自分自身が誰かの重荷になっていると感じたら)
生きる希望や生きる意欲をなくしていくんでしょうか?
そう思うと、この先の自分が怖くなってきました。
本当にこわくなってきました。
額を触ると
冷や汗が出ています。
この怖い気持ちにどう向き合って行ったらいいんでしょうか?
一緒に考えてもらえませんか?
私も考えます。
考えた結果を次の記事で投稿します。